BQLifeの定義として「オルタナティブ」「リーズナブル」「趣味性もしくは実用性が高いこと」の3つを挙げました。後ろの二つは分かりやすいものの、「オルタナティブ」については説明が必要だなと思っていたところで、次の言葉に出会いました。
「オルタナティブ」とは「傍流」であること
「大事なことは主流にならぬことだ。
傍流でよく状況を見ていくことだ。
舞台で主役を務めていると、多くのものを見落としてしまう。
その見落とされたものの中に大事なものがある。
それを見つけていくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ」
渋沢敬三の言葉
この言葉は(あの渋沢栄一の孫である)渋沢敬三が民俗学者の宮本常一に送った言葉です。
宮本の著作とその人生を概説した「宮本常一 歴史は庶民がつくる」の著者畑中章宏はこの言葉について次のように解説を加えています。
「渋沢がここで使った「傍流」を、「オルタナティブ」という言葉で言い換えても決して間違っていないのではないだろうか」
「宮本常一 歴史は庶民がつくる」 畑中章宏
そうそう、私が言いたかった「オルタナティブ」というのはまさにこのことなんです。
ありがとう!渋沢敬三!畑中章宏!そして宮本常一!笑
この「傍流にとどまって大事なものを見落とさないようにする」という考え方は、社会通念上の一流であることだけに価値観の全てが置かれているような現代においては、非常に重要なことなのだと思います。
主流にならないこと、傍流でよく状況を見つめること、そして何より「人の喜びを自分も本当に喜ぶこと」それが私がBQLifeで伝えたいオルタナティブの定義です。
すみません、最後の一行「人の喜びを〜」は完全に渋沢翁の考えに乗っかりました(笑)。
「人の喜びを我が喜びにする」ということ
一見すると「傍流でいること」と「人の喜びを我が喜びにする」ということには何の関係もないように見えます。
しかし、これも逆を考えてみると納得がいきます。
舞台で主役を演じていると見落としてしまう大事なもの。
その中には多くの脇役の人々の小さいけれど異彩を放つたくさんの喜びが宝石箱のようにきらめいているはずです。
主流からは遠くて見えない小さな輝きのひとつひとつに寄り添い、その喜びを自分のことのように味わうことこそが傍流であることの必要条件であると同時に、自らの喜びの真髄なのではないでしょうか。
そんな喜びをひとつひとつ自らの足で拾い集めることが、宮本常一の民俗学であり人生そのものであったと言います。
民俗学の父であり「遠野物語」で有名な柳田國男が伝承や昔語りを研究したのに対して、宮本常一は実際に一人一人の平民(常民)の元を訪ね、その話に耳を傾けることで「忘れられた日本人」などの書籍を残し、いわば草の根民俗学のような研究姿勢を貫きました。
その意味でも、柳田國男が主流なのに対して、その弟子であった宮本常一は傍流として位置付けられているようです。
渋沢敬三と宮本常一
一方渋沢敬三は超がつくほど主流の人物です。
日本銀行副総裁や大蔵大臣を経て国際電信電話(元KDDI)の初代社長を務めています。
しかし、渋沢翁は自ら民俗学者でもあり、宮本たち民俗学者をよく援助していました。
彼も実は動物学者といういわば傍流の研究者になりたかったのに、祖父の渋沢栄一に懇願されて泣く泣く実業界の主流に入ったという人です。
渋沢栄一が出来の良くなかった息子を廃嫡して、孫の敬三に土下座をして自分の後を継ぐように頼んだと言われます。
ある意味、渋沢は自分が生きられなかった傍流を飄々と生きる宮本の生き方が羨ましかったのかもしれません。
そう考えると冒頭の言葉も、単に主流の人が傍流の人に対して上から目線で語った不遜な言葉とは違った、深い味わいがありますね。
渋沢敬三と宮本常一、この対比が面白くてつい脇道に逸れましたが、要するに言いたいのはBQLife的人生の「オルタナティブ」ということの意味と、その本当の意味での人生の楽しみ方についてです。
BQLifeではこれからも「オルタナティブ」で「リーズナブル」で「趣味性か実用性の高い」幸せについて発掘していきたいと思います。
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